2025/05/18 16:57
クレージージャーニーAwich回おもろかった。
AwichがNYの裏ストリートのリアルを取材し、そしてリリックに落とし込むといったコンセプトで、HIPHOPの出自、根源的なエネルギーの構造、歴史をかいつまんでギュッと濃縮して見せる内容だった。カルチャーとしての成り立ちを知ると同時に、彼女が言う『ラッパーのもつジャーナリストとしての一面』はHIPHOPの音楽性に裏打ちされているんだと認識するきっかけにもなった。
アティチュードとサウンドが密接に関係しているということ、むしろそれらは一体であるかもしれないということ、現象それ自体が思想的であるということ、図と地の関係すら超越した必然がそこに生じていると言っても過言ではない、非常に強固な体幹で支えられている表現形態なのだと思った。
一方で、自分が熱心に聴いてきたロックという音楽では、いくら政治的なメッセージを盛り込んでみても、知見の広さを無闇にひけらかして収束するようなハリボテになってしまうし、つまるところ「セカイ系」の域を出ないメッセージのみが発信されるにとどまってしまうと感じてきた。
なぜならロックの音楽性そのものが享楽的であるからだ。やっぱりロックは楽しいし、楽しいだけだし、そのしょうもなさが最大の魅力であるし、それが痛快だ。楽しむための音楽、そこには『手段と目的が同化する』といった、先のHIPHOPと共通する、しかしロックならではの強さが確かにあるが、政治的なメッセージを込めるにはあまりに懐が狭い音楽のジャンルだと思う。清志郎でさえその感性の鋭さから、かのカバー曲で「牛乳飲みてえ〜」と歌うしかなかった。
しかしだ。笑ってる場合じゃない世情が続いて久しい現代で、享楽的な音楽に浸かりながらそんな自分を冷視する風潮が新たなロックを生み出すこととなる。そしてそれらの一部は(一見すると)政治的(とも言える)な表現を用いたが、どこまで行っても「俺とセカイ」を繋ぐ直線的な、そして表層的な表現にとどまった。ここら辺についてはジャーナリストのみならず社会学者らを含めた有識者たちが何度も考察と批評を繰り返してきたのでここまで。
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ワタクシのVo.わこちゃんが先日初めてthe act we actのライブを見て(彼女はkazuki hashimoto [ex.dOPPO]のバンドで鍵盤とコーラスで参加しており、karateの名古屋公演に出演、そこでジアクトと対バンした)、いたく感動していたことを思い出す。そして五味さんに「歌詞が最高」と感想を述べていたat四川園。
おれは、表現としての強度が低いセカイ系を「日常の過剰演出」と呼んでいて、ピッチは正確だが発声の種類がやたら多くそれらをいかんなく発揮することが目的になっている歌手を「運動神経がいいだけ」と評し、「コマンド系シンガー」と呼んでいる。コマンド系シンガーたちは日常を過剰演出しがちで、ワタクシの楽曲はそれらの対極にあると感じている。彼女の歌詞は、生活の範囲を出ず、出まいとし、ましてや自身の生活と宇宙を接続しようなどという発想は微塵もないと思うがどうか。(赤瀬川原平に着想を得た『かんづめ』という曲が唯一宇宙的視点に手を掛けた歌詞の内容であると思っていたが、それもいつの間にか彼女は歌わなくなった)
ポップやロックの手法を用いて曲を書き、シリアスな内面を嘘偽りなく投影する歌詞をそこに乗せることの難しさに向き合う過程で彼女はジアクトに出会い、感銘を受けた。彼女の活動範囲を考えれば、人間の暮らし、生活の尊厳を誠実に問う音楽との出会いはHIPHOPではなくハードコアであるだろうし、それは必然であった。そしてその出会いはこれから彼女の表現の強度を上げていく。歯を見せるな。ギアを入れろ。
余談。
わこ氏がカラオケで歌う『津軽海峡冬景色』を聞いてstiffslackのタピさんは「女eastern youth」といっていたらしい。
PS.ハブ酒はごほうびだろぉ〜〜!!!